休日に4時間かけて書きましたよ。超長えっす。いつもと違う内容の記事です。
興味のない方が読んでも面白くないと思いますので、今回はあまりオススメしません。
MBさんという、僕の大好きな(?)ファッション指南系ライターがいらっしゃいます。
『ファッションにセンスは要らない』『“理論”や“ルール”によって誰でもオシャレができる』というのが彼の主張。これまで「センス」という曖昧な言葉でごまかされてきたファッションのコツを独自の理論を基に言語化し、これまで洋服には一切興味がなかったりファッションの専門知識が無い人たちを指南するための様々なコンテンツを発信して、大きな成功を収められています。
■ アンチとしての支持
僕はMBさんがメディアに出始めたころからその記事を目にしておりますが、彼の提案するスタイルや言い分があまりにも僕自身の好みや考えと違うため、当初から彼の言説には批判的な目でもって接してきました。
以降、彼の書く記事は隈なくチェックし(無料のだけですみませんけど)、ことあるごとにツッコミを入れていくということを趣味としてきました。
これ、ネット的に言えば“粘着”ということになると思います。正直そのとおりです。でも、言い換えてみれば大ファンなんです。MBさんに危害を加えたいわけでは当然ありませんし、今の人気が落ちてほしいとも思いません。むしろこのまま支持を拡大させて更に活躍されてほしいとも思ってます。アンチ巨人と同じような感覚ですね。活躍されているからこそ、カウンターとして反論を繰り広げて喧々諤々に議論したい! と思っているわけです。
ではなぜそんな批判的なスタンスになったかと言うと、もともとMBさんは、日本人特有のダサいスタイルの象徴として、僕が主戦場とする“アメカジ”を取り上げていたのです。ジーンズにTシャツ、スウェット、スニーカーというファッションですね。
日本人男性のファッションはアメカジがベースとされていることが多く、ドレス(=彼の理論によるところのカジュアルの対義語)の要素が少ないため、より子供っぽく、ダサく見えてしまうと。なので、その“ドレス”の要素を増やし、ドレス:カジュアルの比率を7:3にすることでオシャレを構築できるというのがその主張でした。
そしてその彼が提示するスタイルは、ドメスティックブランドやデザイナーズブランドを主体としたモード寄りのモノトーンスタイルであり、MB理論を用いることにより、UNIQLOその他のお手軽なブランドだけでもそのスタイルを再現することが可能だよ、という論法だったわけです。
おいおい、ちょっと待ってください。僕はたしかに洋服で “オシャレ” になることを目的とはしていません。マニアックな執着心の塊で、ウンチク主体の楽しみ方をしています。
とはいえですよ、アメカジがダサくて幼く見られるというその根拠なき主張を簡単には受け入れられません。また、クラシックやスタンダードとして、たしかに明文化はされていないとはいえ、過去から連綿と続く服飾史の中で先達が残してきた伝統や慣習を一切無視し、現代のモードやデザイナーズだけをオシャレの最高峰として、無知なる初心者たちへ提示するのは間違ってるし、すごく危険なんじゃないの? と。
そのようにMBさんから、僕個人の考えやスタイルを真っ向から批判されたことに加え、ロジックを謳うにもかかわらず僕ら古典派が拠り所としているような客観的な史実や、数値的な根拠などが一切示されていないのはどういうわけなの? という疑問から、彼を批判するスタンスを取り、SNSなどで書き込んだり、ときにはリプライも一方的に飛ばして遊んできました(世間ではそれを粘着と言います、それはごめんなさい……)。
※ちなみにMBさんの過去の記事を掘り起こして読んだこともありますが、アメカジへの批判的な物言いは、ストレートなものではなくだいぶ柔らかめに書き換えられていました……。なので引用不可。
■オシャレとはなにか
人にオシャレを説くのであれば、そもそも“オシャレとは何か?”を定義する必要があります。僕は以前、それを当ブログの記事にまとめたことがあります。
僕は一貫して、オシャレとはライフスタイルであり、文化であり、生き様であり、個人のキャラクターに基づくものであって、服装はそういった多くの要素の中のひとつにすぎない(しかもその占める割合は小さい)と言い続けています。そして僕は、それをシニカルに眺めているフシがあります。「なにがオシャレだよ、みっともない」と。
“オシャレ”と“ファッション”はイコールではないということです。いくらその人のファッションが良いからといって、オシャレに内包される洋服以外の諸々の要素を高めていかなければ、決してオシャレにはなれないのではないかと。
よく考えていただきたい。世間で“ファッション感覚”という言葉はどういった意味で使われているかを。“ファッションヘルス”だぞ?と。だいぶナメられてるぞ、それ。
一方でMBさんですが、自ら率先して「オシャレとは何か」を定義し明言することはありませんでした。オシャレをひたすら洋服の組み合わせや見た目の問題だけに帰結させ、その服装の文化的背景や、着る人のキャラクター、そして所謂“TPO”に触れることが一切なかったのです。ただただ「MB理論を基に洋服をまとめれば誰でもオシャレになれる」というのが謳い文句でした。
しかしそれについては理解できるところもあります。自分の服装をゼロから見直したいというファッション初心者に向けて、服装に絡む面倒ごとを全て排除してあげれば、ファッションに対するハードルを一気に下げることができるからです。
ですが同時に疑念も生まれるわけです。初心者がそれで“自分がオシャレになった”と勘違いをしたら、逆に恥をかくことになるぞと。しかも彼の提案するモード寄りなスタイルは決して世間一般的なものではないうえに、目には見えないトレンドという魔物に左右され、年単位・月単位で価値観が変わっていき、読者(=「MBチルドレン」と呼ばれる)が自分自身で変化に対応していくことが出来ないのは火を見るよりも明らかだったからです。
そういった視点で「オシャレの定義」について常々疑問を呈していたところ、MBさんはこう言い出しました。オシャレとは「他人の目」であると。自分の判断ではない。他人からどう見られるかこそが一番大事なのだと。独りよがりではなく周りから褒められることがオシャレであるということです。
これはある意味で逆転の発想です。“ファッション感覚”という言葉をポジティヴに捉えなおしたコロンブスの卵的な言い分です。他人からよく見えてれば本質は問わないわけですから。そしてこれはまさに、K-HOLEが提唱した“ノームコア”の原義・原典に基づいたTPO重視の姿勢に他なりません。さすがはMB師匠です。
なお私は以前、ノームコアの原義について詳細な解説をし、ご好評をいただいておりますのでご参照をば。
他人からの見えかたを重視にする。至極正しい。ノームコアの原義を重視する僕にとっても完全に同意です。
ただし僕は上述したとおり、“反オシャレ”の地点からそれを言ってきました。僕の言い分は、しっかりとしたアイデンティティが確立されていればオシャレになる必要なんかない、服装なんかいくらダサくてもいい、人と違った目立つ格好なんかしなくてもいい……ということ。でもMBさんはブログ記事の締めで毎回こう言うわけです。
想像してみてください。
周りの友人から「最近なんでそんなおしゃれになったの?」と言われているあなたを。
と。
過程は同じ。終着点が違う。僕らは絶対に同じ場所へは辿りつけないんだね……。
■ファッション界の重鎮たちの意見は?
そんな中偶然にも最近、ファッション界の大御所スタイリストたちによるインタビュー記事が複数のメディアで次々と公開されていました。その全員がまるで示し合わせたかのように、オシャレについてまったく同じようなことを語っていたのです。
まずは祐真朋樹さん。
SPECIAL INTERVIEW 祐真朋樹さん 【第2回】センスとは | SOLOTEX®(ソロテックス)
本当は自分が素直に『着たい』と思ったものを着たいわけです。となるともう、他人の意見などおかまいなしに、着倒すしかない。考えられるありとあらゆる方法で着てみるしかない。そうすることで初めて、『なんかそれ、いいね』って他人に認められたり、あの人のスタイルは面白いよねって思われたり、そういうことが起きるんじゃないでしょうか。
センスがいいとか悪いとか実は僕には正直わからないんです。語弊を恐れずにいえば、どっちでもいい。僕は僕しかいないわけだし、みんなそれぞれの感性があるわけです。“センスがいい”っていうのは一般論ですし、ある意味ざっくりとした平均値みたいなものですから。それが誰にでも通用するかどうかっていうのは、正直わからないですよね。
男性って外見だけじゃなく、生地とか作りとか生産背景とか、そういう細かいところも含めて価値を見出しがちです。ぱっと見だけじゃないんですよね。彼女に似合わないと言われたけど、やっぱりこの服が好き。そう思うのであれば、周りの意見に負けないでとことん着るしかない。まあこういうことを言っていると、あまりモテませんけどね(笑)。
同じく超大御所スタイリスト、野口強さん。残念ながら元記事が無くなっていたので、このインタビューを取り上げた友人の山田耕史さんのブログ記事より。
結局突き詰めるとその人のキャラクターなんじゃないかな。どんなにスタイルが良くったって中身が薄っぺらいと洋服着せても薄っぺらいんだよね。
──つまり、その人の中にあるキャラクターがにじみ出たもののひとつがファッションであって、本質的にその人がカッコいいかどうかで決まると?
野口 そうやって言っちゃうと終わっちゃうんですけど(笑)。でも本当はそうなのかなって思う。洋服なんておまけみたいなもんで。
そして、MB師匠も絶対に大好きなはずの伊賀大介さん。
それは何にでも言えることで、アシスタントを募集しても、ファッションしか知らない人間が多くなりました。パッと見はおしゃれになって、悪いことだけじゃないんですけど、ほかのカルチャーをまったく通らずに来るのはどうだろうと。
これは昔から言ってるんですが、10万円があったら服だけに突っ込むんじゃなく、服を2万円に抑え、映画、レコード、本にもそれぞれ2万円、残りを女の子とのデートに使う。そうやってバランスよくカルチャーを摂取しなきゃ、実は何も得られていないんじゃないかと。
皆が皆、口を揃えたように言います。「洋服や着こなしなんてどうでもいい」「大切なのはカルチャーや教養を備えたその人自身である」と。
もちろんそう言うのは上の3人だけではありません。例えばユナイテッドアローズ の栗野宏文さんも常々同じようなことを言っています。ファッションを突き詰めると、結局そこに行きつくのでしょう。服装についてどうのこうの言うのはただの野暮であるということに。ファッション感覚で取り繕われたファッションにはファッション以上の何も備わっていないのです。むしろオシャレに対するコンプレックスを増幅させるだけです。
■変わってきたMBさん
実はここからようやく本題に入ってきます。長すぎてやばいな。
MBさんは、系統的に考えると上記インタビューに登場した方々をきっと大好きでしょうし、当然記事も読んだことと思われます。というのは最近(2019年5月)公開された複数のブログで、上記の内容に言及されているのです。
「ファッションなんて好きな服を好きなように着るのが一番なんだ」
この意見に私も全く同意です。自分の「好き」を最優先した時、人は本当に輝くことができると信じています。仕事でも恋愛でも人間関係でもファッションでもそうです、「好き」を追求することが唯一無二の魅力につながるのです。そこに「こうすべき」といった他者からの強制はありません。
・・・でも、そうは言っても「好きなように着るのが一番おしゃれだよ」って同時にとても無責任だとも思うのです。何も知らない人に対して、洋服について右も左もわからない人に対して「好きなようにしていいよ」って可哀想だと私は思います。
最終的に選ぶのはその人次第です。でもその前にリテラシーをつけてほしい、「選ぶ材料」を渡してほしい。これって至極当たり前のことだと思うんです。なのに今までそこに手をつけてこなかったのがファッション業界。だから「おしゃれな人はおしゃれじゃない人を見下す」ような文化や構造が生まれやすかった。私はリテラシーを多くの人に渡し、皆が皆「自由」に個性を表現し、ファッションを楽しむことができる土壌を作りたい。そのためには多くの人にこの活動を拡散頂きたいのです。
もちろん「好きな服を好きなように着ましょう」と主張する偉大なスタイリストさんたちを批判するつもりも毛頭ありません。上述の通り繰り返しになりますが、私自身もそれが正しいと思っているからです。そしてそうした偉大な方達はそうした啓蒙をするのが役割なのだと思います。そして私には私の役割があるわけです。彼らが救うべきは「リテラシーを持ったおしゃれな人たち」、私が救うべきは「リテラシーを持たない多くの一般の人たち」ただそれだけの話です。喧嘩してるわけでも意見が対立しているわけでもありません。それぞれの役割の元、社会において救うべき人を救っているだけなのです。だから私の読者の方々もどうかそうした人たちを敵視しないでほしい。彼らの活動は尊重すべきだし正しいこと、ただ役割が違うだけです。
僕はこれを読んで軽く感動しましたよ。もともとアメカジを批判されたことでぷんぷん丸した僕は、「MB風モード系スタイルはファッションの基準にはならない」「議論して言い負かしたい!」という思いがMBさんを熱心に追いかける動機となっていたので、彼がこのように自身の提唱する理論の絶対性を取り下げて、人が何をどう着たっていいしみんなカッコイイんだという言い分を認めてくれたわけですから。
この記事を読んだときは頭の中で『サライ』が流れてきました。グッと握手したい気持ちでした。
ところがここで。
このタイミングに、TwitterでMBさんからブロックされましてね(笑)
いやー、これまではいくら批判しててもノーリアクションだったのになあ。
※実はAV女優の椎名そらさんとのやりとりを茶化しちゃったのが原因かと。後に読み返したらたしかに酷かったかも(特に椎名さん側に対して)。それに関してはほんともうマジですみませんでした……
■そしてまた議論は再開
ブロックされてから。
えーと……。ちょっと話がこじれてきたなと。
それ、これまで僕が言ってたことですよね……??
これはしてやられました。僕(らアンチ派)は、MBさんが自分の理論を絶対的なものとして、他のスタイルには一切フォーカスしないことを批判してきたはずだったのに、いつの間にかこちらが「MBのスタイルを受け容れない固執した奴」に立場を逆転させられてしまいました。
ちくしょー! そんなやり方ってアリかよ!
さらに続けて、自己啓発ブログのほうの記事も更新されました。
僕のなかでは『サライ』が流れてほぼ終わりかけていたと思っていたのに、ここで書かれている内容が、まさかのアンチ派への挑発だったのです!!
■ツッコミ開始します
相変わらず統計的なデータや学術的な根拠に乏しい、極めて主観的で曖昧な理論ばかりが語られていて、MBさんらしいというほかありませんが……
これは初めてですよ。遂にMBさん側からディスられて、挑戦状を叩きつけられました。
よーし、受けて立ちましょう~!!
そのdisは記事後半に記載されていますが、最初から読みながらしっかりと答えていきたいと思います。
ブログで書かれたことはブログで書かなきゃね。
さて、記事冒頭。
「論理」より「直感」の方が優れています。
論理(ロジック)が積み重ねていく「階段」のようなものだとすると、ふと閃く直感(イマジネーション)はいわば「3段跳び」のようなもの。直感は時に論理で成長できる限界を遥かに超えてくるものです。
ほほう、それは何故ゆえに?↓
あらゆる映画を観尽くした映画ファンは解釈が難しい映画を好むものです。
我々一般人が見たら「なんじゃこりゃ?」と思うような映画を体感で理解し「面白い」と捉えることができます。音楽も同じです。音楽ファンは「好きだ、愛してる」なんて大衆的なポップスよりも、リズムやメロディが複雑で理解しにくい海外の曲を好んだりします。
このように…芸術でもビジネスでもあらゆる最先端のもの、本質的なもの、創造的なものは、基本的に「分かりにくい」「言語化しにくい」「説明できない」という極めて直感的な世界の中にあるのです。
......え? はい? 日本のラヴ・ソング(音楽性ではなく歌詞について)が、誰から、どうして批判されているのかがまったくわかりません。呉智英氏は“愛する”という言葉は近代になってから翻訳された新しい概念であり、古来の日本にはなかったと書かれていました。そういうことでしょうか?(多分違う)
人間は感覚が先にきて、それを後追いで言語化するんだそうです。はい、なるほど。その根拠となる出典が欲しいところですけれども。
問題は、「前衛的なものは直感だからすごい。それをわかる人もすごい」という謎前提。旧来のものはわかりやすいからすごくなくて、新しいものはわかりづらいからすごいんだそうです。何故に。
たぶん僕の読解力が人より劣っているせいでしょう。意味が一切理解できませんが、もう少し読んでいきます。
私は洋服の着こなしをゼロから教えています。
シルエットの作り方、素材の見方・考え方、デザインの見極め方など。ファッションコーディネートに対するリテラシーを極めて分かりやすく指南しています。私の書籍やメルマガを読めば「80点のおしゃれ」は1ヶ月もあれば会得できるでしょう。
しかし偉大なスタイリストさんなどに「おしゃれとは何か?」と聞くと「それは好きなものを着ることだ」と答えます。
この二つのことは一見すると相反しているように思えますね。
私は「おしゃれになる方法」を教えています。いかにもロジックであり言語的です。
偉大なスタイリストさんは「好きなものである」と教えています。これはいかにも感覚であり非言語的です。ではどちらかが間違っているのでしょうか?…いいえ、実はどちらも正しいのです。
これはすごくわかります。ファッションという迷路があったとして、その入口の場所がわからない人を導いてあげることはとても有用だと思います。ただしその道筋をモード系だけに限定してしまうのは大間違いだと思いますね。ゴールまでのルートはたくさんあるはずです。
過去何度か私はメルマガなど自分のコンテンツにこの話を書いていますが…実は私も100点満点のおしゃれは突き詰めると「好きなものを好きなように着ること」でしか成し得ないと思っています。
変わりましたね。仰るとおりですね。
上述の通りですが「直感的なおしゃれ」こそが創造的であり個性的であり本質的であると思っています。
ほほう、それはどうして? 理由は? 「本質」ってなに? プラトンのイデア論のことかな? 突然むずかしくね??
おしゃれとはつまり客観性ですが、飛び抜けた主観は客観を凌駕するのです。
「理解不能だけどカッコいい」って…稀にいるでしょう?
あれ?? さっきの理由は宙ぶらりん? そして「飛び抜けた主観は客観を凌駕」ってどういう意味?? というかここの部分、漢語? それともラップ?
相変わらず言葉の中身が何も伴っていませんね。
…では何故MBは、私は「直感的なおしゃれ」を教えないのでしょう?
これは過去に何度か説明しているのですが「教えちゃいけないから」です。
100点満点のおしゃれに到達するには
・生まれながらセンスを持ち合わせている
・ロジックの積み重ねの中で偶発的に「直感」という跳躍が起きた
のいずれかしかないと私は確信しています。
出た。とことん文章の意味はわかりませんが、ひとつだけ言えることがあります。
理論ではオシャレになれないと認めてしまっています。
でもわかります。100点のおしゃれさんではなく、まずは入口に立って、合格点のおしゃれさんを目指しましょうと。そこはまだわかりますよー。
仮に私が「おしゃれとは好きな服を好きなように着ることだよ」と説いたら世の中どうなるでしょうか?
日本のファッションはどうなるでしょうか?
おそらく日本のファッションは何一つ変わらないでしょう。おしゃれな人は増えずに今のままです。
このあたりでちょっとした矛盾点に気づいてくるのです。
だって「トレンチコートとステンカラーコートの違い」すらわからない人に「好きな服を着るのが一番おしゃれなのだよ」と言って、一体何が起こるんですか??
世界はどんな風に良くなるのですか??
たったそれだけで直感の跳躍が起こるとは到底思えません。
ただ「デタラメに服を着る人が増える」だけです。※下線筆者
いやいや、ちょっと待ってよ。
それこそが“直感”でしょうよ!
デタラメでも直感で着れる人はすごいんじゃないんですか!? 直感で服を着れる人に指図しちゃいけないんじゃないですか!? よくわからんけど“跳躍”とやらが起きるのはそういう瞬間じゃないんですか??
私は本質論を語る著名なスタイリストさんを否定しません。
それは真理だし、私自身もその通りだと心から納得しています。
でも「それじゃ世界は変わらない」とも思います。
著名なスタイリストさんは本質を追求する存在でしょう。
それならば「好きな服を着ましょう」で良いのです。
しかし私は「100人中1人しか役に立たない本質」よりも「99人の困ってる人を救うロジック」を採用すべき。
つまり私と偉大なスタイリストさんはどちらも正しいけれど、それぞれ役割が違うのです。
ここは「うんうん」とうなずけるところ。MBさんがんばれ。でも提案するのがモード系なのは大間違いだと思うけどね。
そして、「ほとんどのやつらは本当のオシャレになんてなれねえんだよ」と切り捨てはじめたところが素敵です。
誰でもオシャレになれるんじゃなかったのかよ。あんたの理論は上限80点だったのかよ。
そうですよ、簡単にオシャレになんてなれないし、そもそもなる必要もない。でもたしかにオシャレになりたい人は、0点よりも80点のほうが良いのかもしれないですね……。
さあ、そろそろ記事も終わり。この辺りからだんだんと僕のぷんぷん丸が出てきます。
どんなにくだらないと言われても、商業ロックや大衆ポップスは多くの人の耳に残り、また多くの人の人生を勇気づけてくれます。
それ言ってんのどこの誰だ。俺も説教してやるぞ。
どんなに単調だと言われても、ハリウッド映画の勧善懲悪やシンプルさは爽快で日々のストレスを吹き飛ばしてくれます。
それ言ってんのどこの誰だ。俺も説教してやるぞ。
また、どんなに優れているとしても、破壊音などで構成された現代音楽は多くの人の興味を惹くことはできません。
なぜ現代音楽はポピュラー音楽よりも優れているという前提で仮定するのでしょう。その良い悪いの判断基準はどこから? ミュージック・マガジンのレビューの点数とか?
あと、『現代音楽は多くの人の興味を惹くことはできません』ってそれ、音楽家もリスナーも舐めてますよね?
また、どんなに優れた描写があろうとも、難解で複雑な映画では99人は途中で飽きて出て行ってしまうでしょう。
これ、映画監督のことも観る人のことも舐めてますよね? しかもそれって単純に駄作でしょう。難解なものが優れているという謎前提を、どうして自分からすすんで設定しちゃうの?(答え:きっと「モード = 前衛」だから)
こういうところ、一見重箱の隅を突いているように思うかもしれませんが、仮定や論拠がグラグラすぎて、まったくもって自説の補強になっていないってことなんですよ!
で、次の文章がこのエントリーの最も大事なところです。
私のことを知っている業界関係者や、ポジションが高い(例えばユニクロ柳井さんなど)人などは私の活動の意義を理解してくれていますが…中途半端な人ほど「MBは分かってない」といきがって指摘するものだから、さすがの温厚な私もイラッとしてしまいます(笑)。
論理は感覚に勝てないなんて分かってますよ…しかしながらファッション業界は長らくその「感覚」しか教えずに、9割の人を救えなかったじゃないですか。
恥を知っていただきたい。※赤字筆者
出たー! 虎の威!! しかもこれまでユニクロとの個人的な関係を否定し続けてきたのに突然シャチョーの名前をしれっと出してきた!!!
さらにこれまではファッション業界側の手落ちを指摘しておきながら、その威光にはファッション業界の超重鎮の名前を出すんだから滑稽極まりない。
それにしても業界で活躍している人ほど「MBは偉いね」と言ってくれて、活躍していないWEBライターみたいな人に限ってドヤ顔で指摘してくるものだから救えない…。
ここ、すごいですね。
- アパレル業界の偉い人は偉いからすごいらしいぞ
- ファッション業界以外の専門じゃない人をバカにしている
- 売れてる人はすごいらしい
- 売れてない人をバカにしている
- 「救う」とかいう神気取り
- むしろ救ってやりたい
この短い箇所に、これだけのツッコミポイントが隠れています。
このあたりで、MBさんが先輩スタイリストたちに否定されてかなり焦っている様子が見てとれます。マジでドンマイ。
そして結びのまとめ。これまでの「すごい」「優れている」の基準についてようやく回収にかかってきますが……
「すごい」「優れている」「素晴らしい」実はこうした評価は相対的なものです。
冒頭で語った通り確かに直感の方が論理よりも本質的であり創造的であり革新的です。
いや、だから、その直感が論理よりも優れていることの根拠は? 統計データは? その出典元は?
しかしだからといってそれを選べば全てが解決するわけではないのです。
文章の完成度がいくら高くても売れない小説は山ほどあります。
芸術性が極めて高くても広まらないアーティストは沢山います。
活躍していないWEBライターをバカにしてましたよね?
あなたにとって「すごい」とは何ですか?
あなたのビジネスにとって「素晴らしい」とは何ですか?権威・価格・創造性・革新性…あらゆる価値は絶対的ではありません。
そんなこと言ったら散々述べてきた前提が全部成り立たないじゃん!!! 良い悪いの判断基準をあなたが示さなかったら、全部雲をつかむようなお話でしょうよ!!!(号泣)
優れている劣っているを単純な価値基準で、誰かのものさしで測らないように。
「価値」とは「あなたのものさし」で決めるものなのですよ。
私には私の役割があります。
偉大なスタイリストや著名なデザイナーには絶対に真似できない持って生まれた使命があります。
ツイートのキャプチャにもありましたが、MBさんが「良い悪い/好みは人によって違う」と言ってしまったら、MB理論によって絶対オシャレになれるということを自分で全否定しているのと同じでしょう。
人によって好みが分かれてしまうようでは、挑戦するにはリスキーすぎて、“指南”としては完全に失敗していますよ! 誰からも悪く思われない格好を教えてあげてください!
自分の凄さとパワーを訴えたいばかりに、その商品(=オシャレ)の価値判断については放棄してしまっている矛盾に気づかないようです。
『「価値」とは「あなたのものさし」で決めるものなのですよ』って、MBさんによればオシャレは他人から客観的に評価されなければならないんじゃありませんでしたっけ? それ、どこにいきました?
酔っぱらって書いてるのかな。僕とおんなじだね。アハハハハ。
そしてものさしは「役割」によって決まります。
是非あなたの社会における「役割」を定義してみてください。
そっくりそのままお返ししてこのブログ記事を終わりにしたいと思います。
オシャレとは何か。
カッコイイとは何か。
この答えを出すのはとても難しいです。
答えを出せた人、これまで誰もいないんですから。
がんばれMBさん! これからも応援しています!!
長々とありがとございました。